一般社団法人 グローカル政策研究所
N'est-ce Pas?
ロリィタと特攻服
私は中学生の頃からいわゆるロリィタ服と呼ばれる、たくさんのフリルやリボンのあしらわれたお洋服が大好きである。
今年で34歳になるが、年齢など関係ない。7月になり、暑さも増してきたが、暑さも関係ない。ただひたすらに可愛いこのお洋服を、私は度々着ている。
つまりロリィタ歴は約20年以上といったところだろうか。ただ可愛いから着続ける、もちろんそれは大きな理由だが、それだけではない。
私は可愛いものが好きだ。可愛いキャラクター、ピンク色、とにかくラブリーなものが好きだ。
ただ、全てにおいて可愛いことは前提であって、可愛いだけでは物足りないと常に感じている。
ところで私には中学生の頃から好きなファッションがもう1つある。それは特攻服だ。
私の通っていた大学では、特攻服を着ているだけで激怒する教授がいた。政治的な意味があるそうだ。ただ、私が特攻服を好きなことに深い意味はなにもない。
なぜ好きなのか。こういうことを言葉で表すと安っぽくなるのであまり表現したくないが、特攻服に対して私は、ダサいこと、痛々しいことを真っ直ぐにひたむきに素直に追求したかっこよさを感じるからだ。
話はロリィタに戻るが、この'痛々しい'という表現はよくロリィタファッションに用いられる。
つまりロリィタファッションは年不相応だったり、場をわきまえていない、やりすぎなファッションであると世間一般からは思われているように思う。
少なくとも20年以上このファッションを貫いてきた私はそう感じる。
最近ロリィタファッションの教科書と言われている'下妻物語'が20周年を迎えたり、ロリィタファッションをテーマにした映画が公開されたり、またニューヨークのファッションショーに日本のロリィタブランドが招待され、ランウェイを歩くということが起きていて、少しずつロリィタブームがきつつあるようだ。
私は流行に乗るのが嫌いなので、これからロリィタファッションが流行ろうが衰退しようが、自分が好きなものを着続けることは変わらない。
しかしこのロリィタブームは、自分のファッションについて見つめ直すきっかけとなったのだ。
ロリィタファッションを全身身に纏った時とても心地が良いし、自分が誰よりも強くなった気がする。これはロリィタファッションが好きな方々は皆感じる感情だろう。
ただ冷静に考えると…私はただロリィタブランドがデザインし、コーディネートまで決められた完璧なフル装備を買い、着ているだけである。そこに私は存在するのだろうか?
強くなった気がする、それは可愛いお洋服を作ってくれるブランドのおかげだ。
前述したように可愛いことは前提だ。
「ロリィタ服という豪華で可愛いお洋服を着ているだけで、個性=私を表現できていると思い込んでいたが、これは可愛いという前提なのだ」
私は最近のロリィタブームで、このことに気が付かされた。
ファッション、お洋服は私の脳内の80〜90%をしめるほど重要な問題だが、常に悩んでいて、100点のお洋服やコーディネートに出逢ったことはなかった。だからいつも悩んで、悩んで、常にファッションについて考え、ノイローゼになる。考えすぎて体調が悪くなるので、100点ではなくてもとりあえず考えず可愛いと思ったものを着る。
でも足りないものがわかったのだ。ロリィタ服は私にとっては可愛くあるための前提だったのだ。考えてみれば私は特攻服が好きだが着たこともないし歴史を勉強したこともないではないか。
足りないものはここにあった。ただ、私の100点を表現してくれるブランドは、ない。
つまり私が作るしかないのだ。
ファッションが好きだからこそ、20年間ずっと思っていたこと。
私には服をデザインする才能はない。可愛いお洋服は世の中に溢れているし、センスの良いブランドやデザイナーさんたちが可愛い服を作ってくれるから、私はそれを買って着ていればいい。それが70点や80点ならそれで満足するべきだ。
でも20年経ち、ロリィタブームがきつつある中、私は足りなかった20点分に気がついてしまった。
特攻服だ。
→続く
うにふり